|
|
|
|
2009年9月『松原泰道さんをしのんで 地獄の説法師』 |
|
|
「死んだら、その日から地獄で説法を始めますよ」
生前、いつもそういっておられた。
? 「なぜ地獄なんですか。極楽ではないのですか」という質問に対して、「極楽に行ったら、あなたたちは一人も来やしないでしょう」と笑わせた。
早稲田大学在学中は落語研究会に所属され、本気で落語家になろうと考えたこともあるとのことだ。そのたくまざるユーモアは人々を和ませ、仏教をとても身近なものに感じさせた。今頃は地獄の鬼たちも、お腹を抱えて笑っていることだろう。
落語家になる夢は、説法師として結実し、70余年を仏教の普及と衆生の救済に尽くしてこられた。若いころは名が知られておらず、「聴衆が一人も来ないこともよくありました」とおっしゃっていた。それでも説法はするのだそうだ。
「畳が聴いてくれますし、壁も聴いてくれますからね・・・」
「天外さんはお若いから・・・・」
おじゃまするとよくそういわれた。会社ではすでに長老だった私を、若いという人は他にはいない。「それまでは、鳴かず飛ばずでね・・・・」と、奥様がよく言っておられた。65歳のときに書かれた『般若心経入門』が大ヒットし、一躍世の中の脚光を浴びるようになられたのだ。
私がご縁をいただいたのも、『般若心経入門』に感銘を受けたからだ。最新の量子力学や深層心理学と仏教の教義との共通性に触れた『ここまで来たあの世の科学』(1994年)を書いたときに、推薦文をお願いした。師はゲラを徹夜で読まれ、翌朝推薦文を取りに行った編集者にすごいことを言われた。
「これは恩書です。人に恩人があるように、本にも恩書があります。この歳(当時86歳)になって、こんな恩書にめぐりあうとは思っても見なかった」
それを伝え聞いた瞬間、私は血の気がひいた。天外伺朗のペンネームで本を書き始めていたのだが、会社の価値観とのハザマで心が乱れ、きわめて不安定な状態だったのだ。そのひとことで腰が据わり、「作家・天外伺朗」が誕生したといってもいいだろう。
後に(2004年)、南無の会の基調講演でこのエピソードを披露したとき、私は感極まって泣き出し、たくさんの聴衆を前に舞台の上で立ち往生してしまった。
前述の『ここまで来たあの世の科学』はベストセラーになり、続編の『未来を開くあの世の科学』(1996年)では、松原泰道師に対談をお願いした。ところが、テープレコーダーが二台とも故障してしまい、対談は取り直しになってしまった。編集者はしきりに恐縮していたが、両方ともソニー製であり、内心複雑だった。
この対談で私の父の死についてお話した。自分で葬式の写真を選び、見事に死を覚悟していたのに、最後は集中治療室で管だらけになり、モルヒネで朦朧として、手足を縛られて、誰もいないときに亡くなったのが残念だったのだ。師は、仏教の僧侶には坐禅をしながら亡くなる「坐亡」という作法があると、いくつかの実例を語られた。「病院で管だらけになってのた打ち回って死ぬより、意識して尊厳を保って坐亡ができたら理想的だな」と思った私は、1997年に「マハーサマーデイ研究会」という組織を立ち上げた。それが順調に発展し、今日の「ホロトロピック・ネットワーク」になっている。
例年軽井沢の「日月庵」で会員を集めて坐禅のご指導をお願いしていた。終わってから「また来年もよろしくお願いします」とご挨拶すると、「さあ、来年は生きておりますかな・・・」といつも笑っておられた。あるとき、たまたま南無の会と日程が重なってしまい、身延山から電車を乗り継いで軽井沢で私どものために説法をしていただき、すぐとんぼ返りされたのは恐縮した。全国大会でも何回か講演をお願いし、聴衆に深い感銘を与えていただいた。
当初は天下の高僧とお付き合いするのに、かなり緊張していた。名刺に使うため、「天外伺朗」という文字の揮毫(きごう)をお願いするときには、決死の面持ちで切り出したのを覚えている。師は気安く引き受けてくださり、さらさらと3枚ほど書いてくださった。この名刺は私の宝物であり、一生使わせていただくことになるだろう。
三浦半島に土地を買い、瞑想センターを立てることを計画し、「慈空庵」と名付けることにした。その看板の揮毫をお願いし、完成したときには魂を入れる供養をお願いした。署名に「93叟
泰道」とあり、もうあれから8年もたってしまった。瞑想センターはいっこうに出来る気配がないが、いつの日にか、この看板を掲げて建設したいと夢は保持している。
昨年いただいた暑中見舞いに「南無の会でもお見かけしませんでしたが、お変わりありませんか」と書いてあった。「しまった」と思った。ここ何年か、さぼっていたうえ、例年は春にお宅におじゃまするのが延び延びになっていたのだ。すぐにお宅にうかがい、今年は南無の会にも出席した。ご講演の後、楽屋にお訪ねすると、「天外さん、ひさびさですね」と喜んでいただいた。まさか、あれが最後の対話になるとは思っても見なかった。
ふつうなら、追悼の辞は「ご冥福をお祈り申しあげます」としめるものだ。しかしながら、地獄で説法をしておられる方にその言葉は似つかわしくない。「もうすぐ参りますので、楽しい地獄作りのお手伝いをさせてください」と申し上げて、追悼のことばに代えたい。
〈付記〉
松原泰道さんは、この7月29日に永眠されました。101歳でした。
「マハーサマーディ研究会」設立当初からプリンシパル・コントリビュータとして、会のためにご尽力をいただきました。軽井沢「日月庵」で坐禅のご指導をいただき、第三回ホロトロピック・ワールドでは、風邪を引いて体調が悪い中、心のこもったすばらしいご講話をいただきました。白寿を過ぎても、張りのある声で、未来を見つめて語る姿は感動的でした。ご冥福を祈るとともに、これまでのご縁に深く感謝申し上げます。
明治40年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。東京・龍源寺住職、臨済宗妙心寺派教学部長を歴任され、南無の会会長として平成元年第23回仏教伝道文化賞受賞。平成11年禅文化賞受賞。
日月庵主管、「南無の会」会長を務め、禅のこころ、仏教的生き方をやさしく説く。
1972年に出版した『般若心経入門』が大ベストセラーになる。他著書としては『公案夜話』『般若心経という生き方』『母を訪ねて山頭火』『道元』『生きるための杖ことば』『遺教経に学ぶ』『松原泰道全集』(全六巻)など。近著に『百歳の禅語』『足るを知るこころ』『日本人への遺言』『いまをどう生きるのか』(五木寛之氏との共著)。
(ニュースレター「まはぁさまでぃ」Vol.54より)
|
|