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2011年2月『生きる力』(新春メッセージ) |
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天候にたとえるなら、一面霞でおおわれたような不透明感、不確実感のなかで、2011年が明けました。
リーマン・ショックが、もう遠い記憶になっているというのに、世界経済はその薄もやの中にかすんでいます。
私は経済の専門家ではありませんが、『GNHへ』(ビジネス社)を書いて以来、経済問題も興味を持って調べています。
人間の叡智にも、経済学の力にも限界があり、恐慌や大不況の後のいわゆる「出口政策」は、うまくいったためしはないようです。早すぎて「二番底」を招くか、過激なインフレを招くかのいずれかです。過去のデータは、欧米の経済圏だけでしたが、今回はその欧米の凋落を伴っていますので、一層読みにくくなっています。
どうやら、インドや中国は過激なインフレの危険性がせまっているにもかかわらず、日本を含めた先進国はインフレはおろか「出口政策」にも手が出せないまま、泥沼の中に取り残されています。経済や政治の視点から見ると、私たちが乗っている日本」というバスは、少しポンコツになってきたのかもしれません。
しかしながら、乗っているバスがポンコツで、エンストばかりしているからといって、怒り狂っても、運転手に文句を言っても、何も解決しません。運転手を交代させたからといって、このバスは走るようにはならないでしょう。
答えは簡単です。
バスを降りて、自分の足で歩けばいいのです。一歩一歩、しっかりと大地を踏みしめて歩けば、着実に前に進むし、それ以外何の必要もないのです。
多くの人が、バスに乗ってどこかに行かなければならないと思っていますが、それは幻想にしかすぎません。人生は目的地にあるのではなく、一歩一歩の歩みのプロセスの中にあるのです。みんなが、バスを頼りにせずに自分の足で歩きだしたら、日本は素晴らしい国になるし、社会は喜びと笑顔にあふれるでしょう。
じつは、社会という視点で見れば、日本は世界で最も進んでいるし、他に例がないほどうまく運営されています。現金入りの財布を落としても戻ってくる国はほかにはありませんし、災害が起きれば大勢の若者がボランテイアに駆けつけます。人々の意識のレベルが、とても高いのです。
本来なら、それを誇りに思ってもいいはずなのに、多くの人が「日本の社会はどんどんおかしくなってきた」と信じ、他国をうらやましそうに見ています。でも、日本が最も進んでいるので、他をキョロキョロ見回してもお手本はありません。
今の日本の現実や、これから進むべき道は、バスに乗っている間は見えません。自分の足で歩きだした人だけが見えてくるのです。
昔話になりますが、終戦直後の日本社会は、たとえようもないほど悲惨でした。人々の心は荒れ、犯罪がきわめて多く、街はホームレスの人たちであふれていました。とりわけ、家も家族も失った浮浪児たちが大勢おり、靴磨きやカッパライで生計を立てていました。たとえ家族がちゃんとしていても、子どもが栄養失調で亡くなるということが、それほど珍しくなかったのです。
私の家では、庭で野菜を作り、鶏を飼っていましたが「鶏か山羊を飼っている家は、子どもを栄養失調で死なせることはない」と父親がいっていたのをよく覚えています。卵か山羊の乳があれば、子供は何とか育ったのです。
つまり、それほど悲惨な社会でも、自分の足でしっかり歩いていた人が大勢いたし、みんなしぶとく生き抜いてきたからこそ、いまの日本があるのです。
「バスに乗っていれば、どこかに連れて行ってもらえる」という幻想さえ捨ててしまえば、不況もへったくれもなく、この社会はパラダイスといってもいいくらいです。
とはいうものの、やはり気になるポイントがいくつか残ります。そのひとつは、年間3万人を超える自殺者です。日本人はいい人が多いのだけれども、「生きる力」は
弱まっているかもしれません。これは、おそらく長年の「学力偏重教育」の弊害でしょう。
昨年は、『経営者の運力』(講談社)、『運力』(祥伝社)と2冊の本を上梓し、
「運力」に取組みました。それは、仏教などの宗教的な修行と「運力」の強化の方向性が一致しているという、私にとって大きな発見が下敷きになっています。経営者として大成するためにも、人間として生きて行く上でも、何を大切にすればよいかが、明らかになりました。ただし、ここでいう「運力」とは、一般的にいう「好運を呼ぶ力」ではなく、「自らの運命に対するマネジメント力」「不運の中に好運を見出す力」などと定義しています。「運力」に関する本は、今後も書いていきますが、今年から「生きる力」にも取り組みます。
「運力」も「生きる力」も、深層心理学の視点から説き起こしていこうと考えています。
図に、無意識レベルに巣くう五匹のモンスターたちを示します(『壮快』2011年2月号より)。5匹というのは、フロイトが無意識の中に最初に発見した「性欲」をはじめとして、「死の恐怖」「バーストラウマ」「シャドー」「トラウマ」などです。これらは深層心理学ではよく知られている内容ですが、それをモンスターと呼んだり、
無意識の中にモンスター層や聖なる層を設けたりしたのは、私の独断です。
無意識と名づけられているくらいですから、私たちはいくら努力してもこれらのモンスターの存在を知ることはできません。しかしながら、ほとんどの人は実質的にモンスターに支配された人生を送っています。
いま本会は「ホロトロピック・ネットワーク」という名前ですが、設立当初は「マハーサマーディ研究会」といいました。「マハーサマーディ」というのは、瞑想しながら意識的に死んでいくことです。そのテクニックをみんなで覚えようよ、という半ばジョークで作った会でしたが、大きな意味を持っていました。
いま、文明社会では人々は死から目をそらして生きていますが、そうすると「死の恐怖」が抑圧され、無意識レベルでモンスターになってしまいます。「どうせ死ぬのなら、少しはいい死に方をしたい」と思うだけで、死と直面することができ、モンスターの支配から逃れられるのです。つまり「死に方研究会」は実質的に「生き方研究会」なのです。
また人は、「意識の変容」に対して「死の恐怖」がブレーキをかけます。それは、
「変容」ということは、あたかも「さなぎ」が「蝶」に変わるような大きな変化を伴い、それまで自分と思っていた「さなぎ」がいったんは死ぬからです(もちろん、今は精神的な変容を象徴的に述べている訳であり、実際に姿形が変わるわけではありません)。そのため、死から目をそらしている間は、「変容」は起きません。ところが、病気になると否が応でも死と直面せざるを得なくなり、フッと変容を起こすことがあります。つまり、病気は意識の変容のチャンスなのです。
いま、私たちが進めている「ホロトロピック・ムーブメント」という医療改革は、
「医療者は患者の変容をひそかにサポートしましょう」というのが骨子です。もちろん、そんなことをしても保険の点数はつきませんし、患者にも知らせないので、医療者の自己満足に終わりますが、医療の本来あるべき姿が見えています。
さきに述べた「運力」は、モンスター化した「死の恐怖」を軽減すること、つまり死と直面することにより強化されます。本会はマハーサマーディ研究会のころから「死
の恐怖」に取組んできたので、その延長上に「運力」もあるといえます。
さて、「生きる力」ですが、これはむしろ「バーストラウマ」の影響を強く受けています。バース(誕生の)トラウマ(精神的外傷)というのは、母親の子宮の中でぬくぬくと育っていた胎児が、突然そこから追い出されてしまったがために負った心の傷であり、誰も逃れることはできません。私たちが、その後の一生で経験するあらゆる苦しみや悩みの源泉といってもよく、自己否定感や劣等感のルーツです。
旧約聖書に出てくる「エデンの園」という楽園は子宮のことだし、アダムとイヴがそこから追い出されてしまったということは、出産を象徴しています。また、アダムとイヴが神のいいつけに背いて林檎を食べてしまったがために人類全体が負ったとされている「原罪」は、バーストラウマそのものだ、と心理学では解釈しています。つまり、キリスト教というのはバーストラウマをベースにした宗教なのです。「生きる力」というのは、自己肯定感に支えられているので、モンスター化したバーストラウマの支配から逃れられないと、強化されません。
1996年に中教審(中央教育審議会)は「生きる力」に関する答申を出し、それを受けて一九九六年から実施された「ゆとり教育」が大失敗に終わったのはよく知られています。その答申を読むと、それを書いた人が「生きる力」をしっかり身につけているか疑問に思えました。彼は、「生きる力とは何か?」というペーパーテストには満点を取るかもしれませんが、それと身についていることとはまったく別の話です。バイタリテイというのはこういうことですよ、という講義をいくらしても一向にバイタリテイは向上しないことは誰でもわかりますよね。
一方的に知識を与えることが教育だと思い込んでいる人には、「生きる力」の教育をどうすればいいのか、見当もつかないのかもしれません。文部科学省だけでなく、教育学者や一般の人も、「生きる力」の本質や、どうすれば強化できるのかということに関して、理解が不足しているように思います。
ところが、よく調べてみると、ルソー、フレーベル、デユーイ、シュタイナー、モンテッソーリ、ニイル、グリーンバーグなどの教育学は、「生きる力」という言葉こそ使っていませんが、ちゃんとその強化に配慮されています。
最大の問題は、250年の歴史と豊富な実践があるこれらの教育学が、日本の公教育の中に一切導入されていないという、驚くべき現実の姿なのです。1996年の中教審の答申も、もしこれらの教育学をしっかり読みこんでいたら、もう少しはまともになったでしょう。日本の教育関係者たちは、いったい今まで何を考え、何を議論してきたのでしょうか。バスがポンコツになってしまった最大の要因も、自殺者が減らない現実も、どうもそこいらに犯人がいそうです。
さて、それでは「生きる力」強化のポイントは何でしょうか。私は次の3点だと思います。
1.無条件の受容
2.フロー体験
3.大自然との対峙
「無条件の受容」というのは、陣痛が始まる以前の子宮の環境を擬似的に提供することに相当します。子宮はあたたかく包みこみ、栄養を与え、排泄物を黙々と処理しています。胎児は何の心配も懸念もなく子宮にすべてをゆだねています。バーストラウマというのは、陣痛が始まってその状態が破られたことが出発点なので、どうしてもそれ以前の状態を擬似的に作ってやらないと癒されません。
動物でも、自分が産んだ子供が襲われたら、母親は自らの命も顧みずに救おうとしますね。これが無条件の愛です。私は、「宇宙に偏在する愛が母親を通して子供に注がれる」と表現しています。この宇宙の愛のことを、キリスト教では「アガペー(神
の愛)」といっています。この誰でも持っている「無条件の愛」が自然に発揮されれば「無条件の受容」になります。ところが、最近の医療の介入が過多となった出産風景は、この「無条件の愛」を損なっています。また、赤ちゃんが無力のうちは「無条件の受容」ができていても、ほとんどの母親は第一反抗期のあたりから出来なくなってしまいます。
一般の教育現場では、ニイルやグリーンバーグなどの教育実践を除いて「無条件の受容」が実施されていることはほとんどありません。教育に受容が大切なことは常識であり、誰でも知っています。ところが、親も教師も
「もしあなたがいい子だったら、受容してあげますよ」というメッセージを、言葉や態度で常に発信しています。これは「条件付き受容」であり、子どもたちは癒されることはなく、「生きる力」は強化されません。つまり、しつけを優先すると、「生きる力」の弱い子が育ってしまうのです。
その次の「フロー」というのは、「我を忘れて夢中になって何かに取組むこと」を意味しますが、企業経営でも、教育でも、また一人ひとりが人生をまともに歩んでいく上でも、最も大切な項目であり、最近の私の著作の基本テーマになっています。
スポーツでは、同じことを「ゾーン」と呼んでいます。2010年はサッカーの南アW杯で日本代表チームが大活躍をしたのが記憶に新しいと思いますが、あれがゾーンです。
「フロー」に入ると、モンスターたちが大人しくなり、その奥で眠っていた「もう一人の自分」が目を覚まします。これは、「生きる力」が強化されたことにほかなりません。
3番目の「大自然と対峙」することの大切さは、アメリカインデイアンと付き合っているとよくわかります。今日でも、政府の同化策を拒否して、荒れ地で自然に溶け込んで、電気も水道もガスもトイレもない家に住み、昔ながらの生活を守っている「伝統派」と呼ばれるインデイアンも少数ながらいますが、陽気でジョークだらけで、「生きる力」に満ちています。学校はないので、文明的な知識はありませんが、大自然のことはよく知っており、自らの内面としっかり向き合っているので、人間的な成長を遂げます。長老と呼ばれるようになると、大勢の白人が教えを乞いにやってきます。かくいう私も、インデイアンの長老に指導を受けたことが人間的な基礎になっています。文明社会には、そういう精神的な深い指導ができる人がほとんどいません。並みの学校より、はるかに素晴らしい教育システムが伝統派の中に息づいているのです。
一方、「政府派」と呼ばれる同化策に飼いならされたインデイアンたちは、働かなくても年金を支給され、小さいながらも文化的な住宅を無償であてがわれています。つまり、生きて行く上では何もしなくていいので、毎日ビデオを見たりゲームをしたりしてぶらぶらしています。ところが、「生きる力」という意味では最悪で、アル中、薬中、犯罪者が多く、十代の自殺率は白人の十倍近く高い有様です。つまり、同化策や手厚い福祉策は、彼らの「生きる力」を徹底的に破壊する施策だったのです。
ひるがえって、日本の子供たちの生活スタイルをみると、伝統派より政府派に近いことがわかります。子どもたちが、テレビ、DVD、ゲーム、携帯、インターネットなどに接する時間が長ければ長いほど、「生きる力」は失われていくでしょう。それは、これらの文明の利器は、人間の大脳新皮質を活性化し、モンスターたちを暴れさせる作用があるからです。
圧倒的な大自然の力にしっかり対峙すると、人の目を意識してつちかってきたペルソナや超自我が縮小し、「もう一人の自分」あるいは「野生の自分」が目を覚まし、
「生きる力」が強化されるのです。
日本の社会を今より一層進化させるためには、子どもたちを机に縛り付けることをやめて、大自然の中でたっぷり遊べるような環境を用意すべきでしょう。
南アW杯を率いた岡田武史前日本代表監督と、ガイアシンフォニー七番に出演した
冒険家の高野孝子さんが組んで、子どもたちに「生きる力」がみなぎるサマーキャンプが企画されています。こういう運動が盛んになれば、日本社会の将来は明るいと思います。
(ニュースレター「まはぁさまでぃ」Vol.68より)
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