ホロトロピック・ネットワーク天外伺朗の部屋(慈空庵)プロフィール>天外伺朗の謎に挑む!    
 

Copyright(C)
Holotropic Network
All Rights Reserved.
   


天外伺朗の謎に挑む!(2/2ページ)

サイエンティスト、瞑想家、ケーナ演奏者、某大企業重役と、多彩 な顔をもつ天外さん。その飽くことない好奇心の秘密は、自然の中で大いに遊んだ子ども時代にあるようです。
今回は、精神世界に出会った経緯についてお聞きしましょう。

●前号のインタビューでは、ジャズやグライダーに熱中した学生時代を送った後、S社に入社して研究部に所属したところまでご紹介しました。では、天外さんはどんな新入社員だったんでしょうか。

仕事には一生懸命取り組んだよ。そして入社三年目、会社から東北大学へ留学して、アンテナの研究をすることになった。当時、S社はカラーテレビに進出するため、ゴーストが出ない小さいアンテナを開発しようとしていたんだ。僕は三年間研究して、そのとき提出した論文で博士号をもらった。

でも、会社に入っても「人生は遊ぶ方がいい」というモットーは変わらず(笑)。入社後に始めたテニスはいまでも続けているし、仙台時代はなぜか月曜からスキー場に通 って(笑)、最初の年に一級を取ったんだよ。

●アンテナ研究のかたわら何となく勉強しておいた通 信工学の知識が、79〜80年にかけてのCD開発に大きく役立ったとお聞きしていますが。

CDというのは、ビデオディスクで開発された光記録技術と、デジタル信号処理の技術を組み合わせた技術なんだよね。僕は東北時代にたまたま通 信工学のゼミで勉強したおかげで、当時S社では最もその方面に詳しかったのが、CD開発に生きた。

CD開発のプロセスでは、人知を超えた何かが働いていたとしか思えないほど、不思議な展開がたくさんあった。だから、もし「CD開発に最も貢献したのは誰か」と訊かれたら、僕は「幸運の女神だ」と答えるね。 そうそう、雑誌に連載したCD開発裏話を本にまとめたのが、「天外伺朗」というペンネームで出した最初の著作。「天外伺朗」というのは手塚治虫さんの『奇子』というマンガの登場人物の名前で、僕はその響きが気に入り、テニス部の部誌に原稿を書くときにも使っていたんだけど、本を出版するにあたっては手塚さんから正式に許可をもらった。

僕は本名で論文もずいぶん書いたし、もともと文章を書くのが好きなんだ。「天外伺朗」というペンネームでの二冊目の本は、ワークステーションの開発をテーマにした『人材は不良社員から探せ』(講談社)。これもベストセラーになったよ。

●85年に開発され、爆発的にヒットしたNEWSというワークステーションですね。

そう。バークレーUNIXにX-Windowというシステムを搭載した、世界初の商用コンピュータ。そして面 白いんだけど、僕はこのとき初めてカウンターカルチャーと出会ったんだ。だって、UNIXの世界は、まさにカウンターカルチャーそのものだったから。X-Windowを開発したMITに「ライセンスの交渉をしたい」と連絡したら「無料です。ご自由にどうぞ」という答えが返ってきたときは、心の底から驚いたなあ。

どうしてそうなったか簡単に説明すると、実はUNIXを開発したのはAT&Tなんだけど、84年にアメリカで通 信法が改正されるまでコンピュータビジネスが禁じられていた。そこで、AT&Tが「UNIXのライセンス料は取らないが、その上で開発したソフトはすべて無料で提供せよ」と提唱した経緯があったんだね。ソフトのソースコードはすべて開示する義務があり、誰もが自由に使用したり改変していい。ただし改変したら必ず開示すること──ソフトウェアは人類共通 の資産という思想なわけ。

「コピーライト」に対して「コピーレフト」という発想。そしてそんな考え方が、60〜70年代のカウンターカルチャーの潮流にマッチしたんだ。当時のコンピュータ業界にはインドで瞑想を習ったような連中がゴロゴロいて、彼らがソフトの開発に携わり、すごい技術をみんな無料で公開した。それが後のインターネットの発展につながったんだよ。

コピーレフト権を提唱したストールマン博士は、UNIXのエンジニアで彼のソフトを使わない人はいないほどの天才的プログラマ。でも自分はライセンス料を取らず、MITのAIラボのエレベーターホールに住みつき、ドネーションだけで暮らしている。S社がワークステーションを五台寄付したら、とても喜んでくれたよ。

●天外さんとカウンターカルチャーを出会わせたのがビジネスだったとは、意外です。

うん。もちろん世代が世代だから、ヒッピーがたくさんいるのは知っていたけど、僕は彼らを毛嫌いしていた。ジャズが好きだったぶん「ロックは騒がしいだけ」と見下していたし、アメリカでジャズのライブハウスに行くとマリファナの煙が立ちこめていることにうんざりしていたんだ。でも、UNIXにふれたとき初めて、ヒッピーたちの背後にある精神的な文化の深さに気づいたんだよね。

その頃の僕は、「お金を儲けなくちゃ」「出世したい」という欲求があったから、ヒッピーみたいなプログラマたちに出会って、「彼らの動機は何だろう?」と真剣に考えるようになった。いま振り返れば、このときの衝撃がAIBOの開発につながったんだと思う。

だって、「人間は本心では競争社会を求めてはいないのではないか」と思うようになったから。「効率追求のためだけでなく、遊びのためのコンピュータがあってもいい。次はロボットの時代だ」ってね。カウンターカルチャーに出会わなかったら、そういう発想はなかったと思うよ。

●瞑想を始めたのもその頃ですか。

88年2月頃に、知人の紹介で気功や瞑想を始めた。当時はコンピュータビジネスの責任者だったのですごく忙しく、教室にはきちんと通 えなかったけど。でもだんだん、瞑想の奥深さにのめり込んでいった。

●それがやがて「マハーサマーディ研究会」設立につながるんですね。

そうだね。見えない世界に興味をもつようになってから、『ここまで来た「あの世」の科学』(講談社)『「超能力」と「気」の謎に挑む』(祥伝社)などを書き、ちょうど精神世界ブームとも重なって、立て続けにベストセラーになったんだ。

95年には第一回船井オープンワールドが開かれて、僕も講演した。そして同じ年の11月、たまたま知りあった人に頼まれて鎌倉の建長寺で講演会をしたんだよね。僕はそれまで生産性を重視する企業文化の中にどっぷりつかって暮らしてきたから、物事のなりゆきを「宇宙におまかせ」するニューエイジャーたちに出会って、ものすごくびっくりしたよ。それに「おまかせ」していると、それなりにうまく展開してしまうことにもね。

建長寺での講演会は、その場の雰囲気で瞑想会になったんだけど、「死んだらどうなるんですか」という質問をする人がとても多かったのが印象に残った。また、ちょうど僕自身、十年前に父を延命治療の末に亡くしたこともあって、現代人は死について真正面 から考える必要があると強く感じていたんだ。だから、その直後、船井さんから「来年、淡島ホテルで開催する直観力研究会で講演してほしい」という連絡を受けたときは、<いかに死ぬ か>をテーマに話したいと答えた。

当時、僕はすでに松原泰道さんとの対談で座亡や立亡という話を聞いたり、ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』や『ミュータント・メッセージ』を読んだりしていたから、人間は「マハーサマーディ」という死に方もできるのだと気づいていた。マハーサマーディとは、自ら意識して瞑想中に亡くなるという死に方だよね。そういう死に方が、仏教徒、ヒンズー教徒、アボリジニなど、異なる文化や伝統をもつ人々の中で実践されているわけ。

そこで、僕は淡島ホテルでの講演会で、古今東西の「死にざま」の例をOHPにまとめて発表した。そして会場で「みんなでマハーサマーディを勉強する会を創りましょうか」と提案したら、ほぼ全員が賛成して盛り上がったんだ。 とはいえ、その後の対談で出会った永六輔さんに「気味悪い。死は個人的なものだ」と酷評されたので、「世間一般 の感覚はそういうものなんだな」と思い、しばらく躊躇していたんだ。ところが、船井さんがあちこちで僕の提案をみんなに発表したものだから、まだ創立される前から会員になるという人たちがどんどん集まってきたんだよ。そして97年1月、「マハーサマーディ研究会」が始まったんだ。

●設立四年目を迎え、会員さんも七百人を超えましたね。和気あいあいとした会になり、継続率も高くて、とてもありがたいことです。特に昨年はアメリカ先住民との縁が深まったという意味で画期的でしたが、天外さんはどのように先住民文化と出会い、惹かれていったのですか。

僕が初めて出会った先住民は、ラコタ族のメディスンウーマン、マリリン・ヤングバードだった。93年、穂高養生園でおこなわれたスウェットロッジで彼女がリードしたんだよ。そのときは湯川れい子さんもいて、共時性を感じる出来事がたくさんあった。僕はそれまで先住民には西部劇のイメージしかなかったけれど、実際に会ってみるととても知的な印象を受けたね。

二度目の出会いは、97年の船井オープンワールドがきっかけ。対談を予定していたレイモンド・ムーディ博士と面 識がなかったので、打ち合わせの夕食会を開いたんだけど、そのときやはりオープンワールドで講演する予定だったトム・ダストゥーが同席したんだ。僕はトムの身の上話を聞いて、アメリカ先住民がいかに悲惨な環境にあるかを知った。若者の自殺率が平均の九倍とか、アルコールやドラッグに溺れる人が多いとか。トム自身も苦しんだのだけど、長老のもとで修行し、メディスンマンになったんだ。

その次に先住民に会ったのは、98年5月に福島でスウェットロッジをしたとき。その三日前、以前から何となく気になっていた三浦半島に行ったら、ある場所でトンビが急降下して僕の頭に止まり、そして飛び立っていったんだよね。僕はとても驚いて「偶然かな? それともトンビを怒らせたのかな?」と考えたのだけど、すごく変な気分がした。そこで、スウェットロッジをリードしてくれたラコタ族のメディスンマンに、その出来事の意味を尋ねたんだよね。すると彼から「すごいことだ。ワカンタンカ(創造主)があなたの考えを肯定したんだよ」という答えが返ってきた。

●それで三浦半島に瞑想センターを設立することにしたんですね。

初めはさすがに半信半疑だったよ。けれど、翌週に仕事でボストンに行って、トムに再会したんだよね。このときもタイミングがすばらしかった。トムには仕事が入っていない日の午前中に、僕が泊まっているホテルに来てもらったんだけど、当日ふいに午後の予定もキャンセルになったので、一日中話せることになったんだ。

そして『宇宙の根っこにつながる人びと』(サンマーク出版)の原稿を書くためトムに取材し、ほぼ区切りがついたところで、チョクトー族のメディスンマン、セクオイヤ・トゥルーブラッドがひょっこり現れたわけ。そして僕がトンビの話をしたところ、セクオイヤが「それはすごいことだ」と断言したんだよ。

その日、セクオイヤは夜に開かれるミーティングに参加するためボストンを訪れていた。ミーティングはプロテスタント教会で開かれ、オープニングにはトムとセクオイヤが先住民の儀式をおこなったんだけど、そのときの主催者がハーバード大学医学部教授で精神科医のジョン・マックで、講演者が宇宙飛行士のエドガー・ミッチェルだったんだよね。しかもテーマが「量 子力学と精神世界の接点」で、僕がいつも話していることと同じ内容。もう本当にびっくりしたなあ。

ちなみに、このときの出会いが、昨年の船井オープンワールドでジョン・マック、セクオイヤ、僕の三人が「アブダクション」というテーマでセッションする布石になった。いま振り返ると、まるで共時性のかたまりだよね。

しかも、アメリカから日本に帰ったら、不動産屋から手紙が来ていて、「三浦半島に遊休地がある」と知らされたわけ。それで不動産屋のいう場所を見に行ったら、なんとトンビが僕の頭に止まった場所から百メートルしか離れていない。それでも、僕はなかなかトンビを信じる気になれなかった。廃屋も建っていたしね。だから、いったんは断った。

でも、その後もどうしても気になったので、99年1月に湯川れい子さん、事務局スタッフの早川さん、山崎さんの他、数人の友人と土地を見に行ったんだ。そしてトンビの話をしたら、友人たちはみんなすぐに信じこんで、すごく乗り気なわけ。そこで僕はその場で決心し、三月に契約をすませた。衝動買いみたいなもんだよね(笑)。

昨年セクオイヤにスウェットロッジをしてもらい、すばらしい光の写 真が撮れたのがその土地。まだ更地だけど、数年のうちに瞑想センターを着工できるといいなと思っている。

●共時性がどんどん起きてくることを考えると、瞑想センターも予想より早く設立されるかもしれませんね。特に昨年は大躍進の年でしたし。

一月のセドナツアーに始まって、「マハーサマーディ研究会」初の海外大会開催、ワークショップの激増と、かつてないほどの転機の年だったね。先住民とのつきあいがまだ短く、そんなにたくさん出会っているわけでもない僕が、いつのまにか聖なるパイプを託されてパイプホルダー(司祭)になってしまうし……(笑)。

また僕にとっては、仕事上でも、責任者として関わったロボットの展示会ロボデックスが社会現象になるほど大ヒットをおさめるなど、大きな進展があったんだよ。

それにしても、会社で仕事をしながら、ふとパイプホルダーとしての自分の姿が目の前に浮かぶと、すごくちぐはぐで、奇妙な気分がする(笑)。両方の僕の姿を見ている人は、ものすごいギャップに笑っちゃうと思うよ。

●先住民との縁の他にも、天外さんご自身、ケーナの演奏会を開いたりCDを発売するなど、演奏者としても活躍の場が広がっていますね。今年はいくつかの音楽祭にケーナ奏者として参加予定とか。

いまは会社から帰ると毎日ケーナを練習しているよ。ケーナを習い始めたのも奇妙なきっかけで、ニューエイジ系の「芸術家のセミナー」に参加したとき、ある人に「あなたは過去生でケーナが得意なマヤの司祭だった」といわれたからなんだけどね。

●今後はどういう展開を考えていらっしゃいますか。

今後の展開?……そうだね。「トンビに聞いて下さい」と答えておこうか(笑)。 「マハーサマーディ研究会」の流儀は、「イーグルに聞け」ならぬ「トンビに聞け」! 今後も皆さまご一緒に、この世とあの世に橋を架け、スピリチュアルな冒険を続けていきましょう。

インタビューに応じて下さった天外さん、どうもありがとうございました。
2001年1月13日追加取材。 (聞き手:事務局スタッフ)