2001年03月『エゴをなくして生きる喜び』 |
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いま私の手元にあるのは、日本経済新聞の「私の履歴書」のコラムです。毎日連載されていますが、今回はアサヒビール名誉会長の樋口廣太郎さんの11回目の記事です。私が今日のテーマにしたい箇所を引用します。
「私はカトリックを信仰している。パリ・ミッションという教団から、初めて日本に来た7人の宣教師の誓いを知って感動した。『7つの教会を建て、速やかに日本人司祭に譲り、いささかも痕跡を残さないことをもって我々の使命とする』というもので、これを生きる上での1つの指針にしている」
これはいわゆる日本、中国、一般
の西洋における考えと違います。日本、中国というのは「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」と、要するに、命は惜しんではいけないが、名は惜しまなければならない。自分の後生に、自分の子孫たちが自分を誇りに思ってもらうような業績をあげて、そういう生き方をしなければならないということです。とりわけ武家社会では、そういうふうに言われてきました。また、一般
的にもそういうふうに考えられてきました。西洋の社会でも、立派な仕事をして、大きな銅像が残るということが大きな人生の目標になっています。
仏教というものには、宣教師が言ったような考え方が多く、いまのお坊さんがそうだとはかぎりませんが、もともと自分のエゴをなるべくなくしていって目立たないように生きていくというのが、仏教的にいうと正しいようです。ところが、カトリックというのはそうではないのじゃないか、銅像を建てるということがキリスト教的な考えかといままで僕は思っていました。ところがこれを読んでみると、カトリックも、自分の痕跡を残さないというふうなことがひとつの指針になっていることを知って、うれしかったのです。
というのは、いまの文明社会というのは、あくまでも一人ひとりが自分のエゴを追求する、お金持ちになったり、有名になったり、家を持ったり、きれいな奥さんをもらったり、子供たちもいい学校に行かせて、いい生活をさせるということが、貴重な推進力になって、それを目標にみんなが切磋琢磨することによって社会が動いている。社会全体の推進力が、そういうエゴの追求になっています。ですから仏教的にいうと、煩悩が社会の推進力になっているのです。それに誰も疑問を持っていません。
本来、仏教はそれと違うことを説いているのですが、しかしながら、いまほとんどの仏教の僧侶たちがどうしているかというと、通
常の社会の人々と同じように名声を求め、教団の中の高い地位を求めて活動しています。教団には収賄罪なんてありませんから、選挙のときにはたいへんなお金がばらまかれる、というのを目の当たりに見てきています。また、教団の中の高いポジションを、僧侶たちは必死になって得ようとしているのを見てきていますので、必ずしも仏教の教えのとおりにやっているわけではありません。
でも根本的にはそういうことを言っていますし、今回、キリスト教も同じことをいっていることを発見しました。これは人間がハッピーになるためのコツみたいなものではないかなと思うわけです。要するにどれだけ自分のエゴというものを減らしていけるか。これはゼロには絶対できませんから、肉体を持っているかぎりエゴはどうしても残るわけですが、それが少しでも減る方向に向かうのか、エゴが肥大する方向に向かうかということで、人生はものすごく分かれてくるのではないかということを常日頃考えています。
私の場合、かつては猛烈企業戦士の一人だったわけです。そういう意味ではたいへん強いエゴでもって、企業の中でもバリバリと活動していた時期があります。いまはその頃に比べればエゴもだいぶ減っているように思います。これは測定できないのでなかなかわかりませんが、自分で思い返してみると、そう思うのです。でもまだ普通
の人よりエゴは強いかもしれません。それが減るにつれて、生きる一日一日がひじょうに平安になってきているし、楽しくなってきているし、そういう意味では、幸福に近づいているような気がするわけです。
それで最近「よかったな」と思うことがひとつあります。じつはここ1年
くらいマスコミにものすごく取り上げられました。これはアイボを創ったり、
ヒューマノイドロボットを開発したり、ロボデックスというロボットの博覧
会を企画して、ひじょうに成功させたので、取材が引きも切らずに来ました。
講演はいま全部断っていますが、多いときは1日に10件くらい申し込みが
来たりして、ある意味でチヤホヤされています。こんなふうにチヤホヤされるのは私にとって3回目で、1回目はコンパクトディスクを開発したとき、2
回目はニューズというワークステーションを開発したとき、そして今回が3
回目なわけです。
前の2回はいまに比べれば、はるかに「どんなもんだい!」という高慢な心が強かったように思います。いまはチヤホヤされても、ひじょうに淡々とした気持ちでいることができるし、それがまたスッと、騒ぎが収まればただの人に戻るということも、以前に2回経験しているからよくわかっているし、こういうことはいっときのものだし、いまマスコミに出てさらしものになるということは、いわゆる仕事の上での必然、必要性があるので、やむなく出ているということもあります。ところが、ひじょうに淡々とした心境で、それが客観的に映画でも見るように、自分を見ていることができるようになりました。それは前2回に比べて少しエゴが減っている証拠だろうというふうに思えて、今年の正月はひそかに自分で自分に乾杯したのです。
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