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2001年05月『時間とは何か』

時間の流れは一定ではない

 今日は時間についてお話ししたいと思います。

 我々の一般常識では、時間というのは、過去から未来に向かって一定のスピードでとうとうと流れている。東京でもニューヨークでも、どこでも同じように流れている。時間の流れ方は変わらない。というのが一般 常識ですね。

 それは物理学でいうと、ニュートン時間と言われています。それに比して、アインシュタイン時間というののが物理学では定義されていて、それはひじょうにスピードの速い乗り物に乗って移動していると、時間の進み方が遅いとか、あるいは地球のようにひじょうに重力の大きいものの側にいると、時間の進み方が遅くなるとかいうものです。そしてこれは物理学的にちゃんと計算もできます。

 たとえば、光速の99%のスピードの乗り物に乗って1年旅行して帰ってくると、地球上では7年の年月が経っているということは、物理学的に正しいことなのです。したがって、浦島太郎の話は物理学的にも証明されるのです。

 それから、海面近くにいるほど時間の進み方が遅く、高い山の上にいると時間の進み方が速いのです。たとえば、東京タワーの上と下で暮らすと、どのくらい時間の進み方が違うかというと、まったく同じ条件の双子で比べた場合、上で暮らしていた人の方がちょっと早く死にます。たとえば87歳で死んだとすると、0.0001秒程違ってきます。こんなふうに、これはちゃんと測定できるのです。

 東京タワーの上と下でも測定できるのですから、まして1000メートルや2000メートルの山ともなると、重力はそれだけ弱くなりますから、時間の進み方はかなり違ってきますね。これがアインシュタイン時間です。

 また、哲学者のベルグソンという人は、現在の中に過去と未来が畳み込まれていると言っています。これを説明しようと思うと1時間以上かかりますので今日は省力します。

 世の中には「予知」ということがあります。たとえば心理学者のユングなどは、奥さんやお母さん、患者さんが死ぬ とき、あるいは第1次世界大戦が始まる前に、そういうことを予知夢で見ています。夢の中でそういうことを予知してしまうのですね。

 ところが、ニュートンにしてもアインシュタインにしても、物理の理論は未来はすべて決まっていることになっています。ですから未来をのぞけば、予知という現象もあるかもしれません。しかしながら一般 的には、物理学は物質的な世界のみをあらわしており、実際の世界は、人間の自由意志によって未来は変わると考えられています。

未来予知という現象

 ですから予知というのは、一般常識から見ると不思議な現象なのです。ところが、そういう偶発的な予知だけではなく、最近ですと意識の拡大ということがいろいろ研究されています。これはLSDなどを使うと、あらゆる人が変性意識状態になって不思議なことが起こるのですが、そういうときにも自分の未来の姿を見てしまうということはあるわけですね。それからランナーズ・ハイという現象があって、マラソン選手あるいは短距離選手などが、走っているうちに気持ちよくなって、まったく苦しくなくなり、自分がゴールを切る姿を見てしまうというようなことがあります。

 そうすると、時間というのは何だろうか、ということになります。私自身も予知みたいな経験は何回もあります。たとえば、パーティ会場でビールのジョッキをひっくり返すシーンが見えて、その何秒か後にそういうことが実際に起きてしまったり……。それはほんとうにつまらない予知のひとつですが、そういうことはたびたび経験しています。

 そうすると未来は固定しているか、ということがあります。未来は果 たしてランダムで何が起きるかわからないということではなく、未来は固定しているのだろうかという疑問が出てきます。それに対して物理学のほうでは、定説にはなっていない素粒子の仮説ですが、量 子力学の「多世界解釈」というのがあって、素粒子の場合は、そのひとつの可能性が独立の世界を形成しているというのです。位 置とか、スピードとか、軌跡とかに関していろいろな可能性があるのですが、素粒子を観察することによって、いろいろな可能性の中からひとつの世界だけを選びとるというのです。

 その仮説が正しいとすると、未来はいろいろな可能性があるのだけれども、そのうちのひとつを我々は観察という行為で選び取るということになります。

運命はという未来は変えられるかどうかはわからないが、その見方を変えることはできる

 しかしながら、いま我々は、未来はほんとうに定まっているのか、それとも選びとれるのかということは、ほんとうにわかりません。そのときによく「運命は変えられるのでしょうか」という質問を受けます。

 運命が変えられるのかということは、結局、そこには我々は自由意志で未来を変えることができるのか、というニュアンスがあると思います。そういうことができるかどうかということは、まったくわかりません。

 けれど「運命は変えられますか」という質問の裏に何があるかというと、そこにはいい運命と悪い運命があるという考え方があり、悪い運命をなにかいいことをすることによって、いい運命に変えたいという含みがあると思います。そしてそこにはいい運命と悪い運命を区別 するという考え方がありますね。

 それに対しては、私は明確に答えることはできます。いい運命とか悪い運命はありませんと。自分の身の回りで起きていることは、じつはいいとか悪いということはまったくないと思います。それは自分自身がいいというレッテルを貼ったり、悪いというレッテルを貼ったりしているだけであって、アメリカンインディアン流にいえば、起きることはすべてクリエイターの贈り物であるというのが、いちばん上から見た見方じゃないかなあと思います。そういうときに時間軸上で、未来が変えられるかどうかということはわかりませんが、その見方を変えるということはできるわけです。

 見方を変えることによって、あたかも自分にあうべき運命が来ていると感じることは大いにあると思います。そのときに、ものの見方を変えるということを理性でできるかというと、よく見ましょうということを言って、果 たして理性でそう考えることができるかというと、それははなはだ疑問なんですね。

 プラス思考という考え方があり、それを主張している人もいますし、また『くよくよ悩むな』という本もでていますが、くよくよ悩むなと悩んでいる人に向かってそう言うことは、溺れている人に向かって溺れるなと言っているようなもので、これは何の役にも立ちません。またマイナス思考をしている人にプラス思考をしなさいと言っても、それもまた理性でできるものではありません。

 なぜマイナス思考をするかというと、その人がいっぱい鎧を着ているからであって、その鎧を脱いでいくと自然にプラス思考になっていくのであって、それを無理にプラス思考をしようと理性で強制すると、結局はマイナス思考をしている自分を否定してしまうことになります。そうして自分自身を否定してしまうと、もっと鎧を着てしまうことになりますから、もっとマイナス思考をしてしまうことになってしまいます。ですからプラス思考をしましょうというメッセージはとても危険です。

 『小さいことにくよくよするな』という一連のベストセラーになっている本はそれだけではなく、体の力を抜くと水に浮きますよということを言っていて、それはこれから泳ぎをする人には非常に重要なメッセージだとは思います。でも、その体の力を抜けば泳げますというメッセージを暗記させて泳げない人を海に放り込んだら、やっぱり溺れるでしょう。なぜかというと水が怖いということが本能的になれば、本能的に体をこわばらせてしまい、そうすると結局溺れてしまう。そこでも理性というのはあまり役に立たなくて、泳ごうと思ったら、背の立つところでちゃんと泳ぎを練習しなければなりません。

 ということで、そういう方法論というのが宗教的な修行であったり、ヨガだったり、瞑想だったりして、そういうことをちゃんとやることによって、だんだん泳げるようになります。そうすれば小さいことにくよくよしなくなるし、自然にプラス思考になっていきます。そしてまた、いい運命、悪い運命ということを気にしなくなり、自分に起こるすべてのことに感謝できるようになるでしょう。