2001年10月『なぜ、私たちは宇宙の大きなしくみから離れたのか』 |
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あるきっかけがあって、最近童話をひとつ書きました。タイトルは変わるかも知れませんが、「大きな森のおばあちゃん」で、たぶん年内には明窓出版から刊行される予定です。今日はその話をしたいと思います。
いま天外伺朗という名前で本を書いたり、あるいはマハーサマディ研究会というネットワークを主催していますが、本職は某大手企業で研究所の所長をして、最近ではアイボという犬型のロボットを作りました。
じつは、そのアイボを売り出す前にいろんなことを考えました。そのひとつにアイボに寿命をつけちゃおうかという話もありました。あまり可愛がらないと死んでしまうとか。そうすると、その死体を引き取ってお葬式をし、それをまたリサイクルに回すいい方法がないだろうかなどと検討しました。でもアイボが死んだりしたら、ユーザーはお怒りになるだろうということで、結局、実現しなかったのですが、そのときに私は小学生の頃に飼っていた自分の犬のことを思い出しました。
その犬の死体を庭の桃の木の下に埋めたのですが、そうしたら翌年になって桃がたくさん実りました。そしてそれを食べるたびに可愛がっていた犬のことを思い出しました。犬を木の根本に埋めておくと、その死体が腐って栄養分になり、実をたくさん実らせ、それをまた人間が食べます。
ところが、アイボは埋めても木の栄養にはならないわけですね。それにふと気がついて、これはもしかしたら重要なメッセージかもしれないという感じがしました。
考えてみると、地球上のあらゆるものがエネルギーの循環の中に入っています。そのエネルギーの循環の中に入っていないのは工業生産物だけなのですね。そうすると、この3百年間、人類が発達させてきたこの文明というのは、ひょっとするととんでもない間違いの方向に来ているのかもしれません。
本来ならばそのエネルギーの循環の中に溶け込むようなものを工業製造物としても作るのがほんとうではないか。そんなことをチラッと思ったことがあります。いまそんなことを言っても、聞いてくれる人はいないと思いますが、環境問題とかいろんな問題よりももう少し深いところで、文明全体のあり方を考えてみたいと思ったのです。
ちょうどそんなときに、私の会社で「ガイアシンフォニー」という映画を上演するという話が持ち上がって、龍村仁監督をお迎えしました。
私は彼の友達なので、監督を皆さんに紹介するときに少しお話をしました。4百人くらいの人がいましたが、この中でこの映画を見たことがある人がいますかと聞いたら、手を挙げた人はたった2、3人しかいませんでした。いっぽう、天外伺朗という名前で会う人たちのほとんど百パーセント、あるいは90パーセントの人たちは、この「ガイアシンフォニー」を見ているのですね。
ところが普通の会社の従業員というのは、1パーセントくらいしか見ていないということを発見して、監督はまだまだこの映画が売れるマーケットはあると喜んでいましたが、それくらいギャップがあるのも事実だと思いました。
そのときに龍村監督がしてくれた話が、強い印象に残っていました。ガイアシンフォニーの1番目でしたが、その中に親が殺されたみなし子の象を育てている女性ダフニーの話があります。彼女のところを巣立っていったエレナという象がいるのですが、彼女がアフリカの草原に立って「エレナ」と呼ぶと、その象がどこからともなく現れるというシーンは、強く印象に残っています。
龍村監督はそのとき、ダフニーから直接聞いた話をそこで話してくれました。象というは年に一回、たくさん集まることがあるそうです。どうして情報伝達するのかわからないけれど、時によっては千頭くらいの象が集まるそうです。そして干ばつが始まると、何千頭も集まってきます。
そのときどこに集まるかというと、いちばん年老いた、知恵のある雌の象のところに集まるそうです。象は群をひいているのは雌で、そのリーダーというのは必ず年老いた雌の象で、そのなかでもいちばん知恵のある象です。その象は前の干ばつのときことを覚えていますから、たくさんの象を率いて、まだ緑の残っている場所へ連れていくのです。
そのときもちょうどそういうことが起きました。70年代にアフリカで大干ばつがあったのですが、何千頭という象が緑のあるところへと行進していったのです。それを見ていた動物保護委員たちが、これは大変なことになると危機感を持ちました。あれだけの象が森に行って緑を食べたら、何日かで森はなくなってしまうだろうと。そうすると象も死ぬ
だろうし、森の中に生息しているあらゆる動物も死んでしまいます。
その象を半分くらい間引こうという提案が出たらしいのですが、ダフニーはが強く反対しました。年寄りから殺していけば、親を殺された子象は大きなトラウマを背負って、そのままでは育って行かなくなるからです。
結局、象たちはそのまま森に入ってムシャムシャと緑を食べはじめたのですが、そのうち年老いた象たちが森を離れ、干からびた川のところへ行って、次々と横たわって死んでいったというのです。何百頭という象の死骸が放つ匂いはすごかったらしいのですが、片づけるわけにもいかないので、そのままにしておいたそうです。
それから何年かが経ち、今度はものすごい雨が降ってその川にも水が流れました。そこで何が起きたかというと、象の死骸がものすごい栄養になっていて土となっていました。しかも象のお腹の中には森で食べた木の実が入っていましたから、それが発芽寸前で待っていて、そこに水が来たというので、いっせいに発芽しました。通
常の何倍というスピードで森が再生されたのです。
以前は小さかった森が、はるかに大きくなりました。人間が乏しい知恵を使ってコントロールしようとしなくても、自然はちゃんとうまくいくようになっているのだということを、そのとき龍村監督は話してくれたのです。
最近あるパーティで、絵本の挿し絵を描いている人に会いましたが、その人から童話を書いてくださいという依頼と共に、その人が書いた絵本を送ってきたのです。それがたまたま象の絵本だったので、それを見て私は龍村監督の話を思い出し、それを童話に脚色して書き上げました。
何が言いたいのかと言いますと、ひとつは、象は森の木を食べたり、木を押し倒したりして、一見、森林を破壊するかのように見えるけれど、そうではなく、食べた実を糞としてあちこちに運ぶ役割を果
たしています。木は歩けない代わりに象が歩きます。そしてまた糞や、その死体が土壌に栄養を与えます。それでまた木が育ち、草食動物を育て、それを肉食動物が食べ、また土の栄養になる……そういう大きなエネルギーの循環が、地球のひとつの営みなのです。その営みを私たちはもう少し意識しなければいけないのではないかと思うのです。
もうひとつは、そのときに自分から死んでいった象が、どうしてそういうことをしたのか。みんなが森を食べたら森がなくなってしまうので、そのまま死にましょうとか、お腹がに種が入ったまま死ぬ
と森が大きくなる、なんてそういうことを考えなかったのじゃないかと思うのです。
考えなかったけれど、何となく本能にまかせて行動していると、うまく循環の中に入っていって、結果
的にはすべてがうまくいく。どうも宇宙というのはそういうふうにできているのではないかと思います。
この象の話というのは印象的ですが、わたしたちの身の回りでも、そういうことになっているのではないでしょうか。たとえば春になって花が咲く。そこへ蝶々が飛んできて花粉を運び、どんどん美しい花を残していきます。蝶々やハチがいなかったら植物は進化しないのですね。そのことを花やハチが考えているわけではありません。そこにインテンションというのはいっさいありません。自然に本能の赴くまま行動していると、うまいしくみの中に入っている。私たちの至るところにそういうものが見えるのです。
そうすると人間だって、そういうしくみの中に入っていないわけはなくて、逆にいまの私たちにはそれが見えなくなっている可能性があります。なぜ見えなくなっているかと言えば、自分のインテンションがひじょうに強すぎるのです。目的意識とか意図とか作為がありすぎるために、宇宙のそういう大きなしくみが受け取れなくなっている人がたくさんいるのではないかということに気づいたのです。
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