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2001年11月『シャドウとペルソナ』

 今日の新聞(10月29日)に、パキスタンの教会が襲撃されて大勢の人が殺されたことが載っていました。これはいちばん恐れていたことで、下手をするとイスラム教とキリスト教の全面 的な闘いになるのではないか、そういう怖れが前より増してきたのではないかと思います。

 9月11日に、同時多発テロが起きてアメリカは大打撃を受けたのですが、一面 ではたいへんな団結が見られました。そのあと報復攻撃があり、炭そ菌事件があり、今回のキリスト教会に対する襲撃がありました。この一連の事件をどう見るかということですが、もちろん私の立場は何がいいとか悪いとかということではなく、その背後に何が存在するかということに関して、今日はお話ししたいと思います。

 もちろんテロがいいという人はいないと思いますが、報復攻撃については賛否両論があります。それが正しいとか間違っているということではなく、もっと深いところにいろいろなことがあり、まずそれを理解することで、いろいろ考えて欲しいと思うのです。新聞の論調などを見ていても表面 的な議論ばかりで、これではほんとうに本質は見えてこないのではないかと思うからです。

 そこで一連の事件からは離れますが、昔は魔女狩りというものがありました。19世紀にいたるまで5百年間にわたって、数百万人の人が魔女の汚名を着せられて、神の名の下に火あぶりになったり、虐殺されたりしました。いったいそれは何が起こったのかということですが、心理学者たちはそれに彼らの答を出していますが、意外に世の中には知られていません。

 当時の聖職者、キリスト教の指導者たちは、どうしても聖人のふりをしなければならなかったことは想像に難くありません。たとえば司祭であれば、次第に指導的な地位 にいきますから、あたかも聖人のように振る舞わなければなりませんでした。これを心理学の言葉でいえば、ペルソナ(仮面 )といいます。それ自体は悪いことではありません。

 ペルソナは誰でも持っているわけで、社会的な健全なペルソナを持っているからこそ、我々は健全な社会生活を営めるのだともいえるわけです。普通 の人ですと、会社員としてのペルソナだとか、父親のペルソナだとか、夫のペルソナだとか、いろいろなペルソナを自分も知らないうちに使い分けています。そしてそれぞれの場で、場にあった振る舞いをすることができます。これはある意味で健全です。

 理性によって(心理学では超自我といいますが)、超自我が自分を規制して、部分的な人格を形作っています。そうすると、ある意味で、理性的に好ましいもので人格を形成していきます。ところが自分の全人格というのは好ましいものばかりではありませんから、その好まないところを抑圧して、自分から見えないようにするという傾向があります。それをシャドウといいます。

 シャドウというのは、たしかに存在は感じるのだけれども、それは自分にあってはならない部分的な人格なのですね。そうすると、自分にあってはならないのに存在は感じるので、それを人に投影するということが起きるのです。それをシャドウのプロジェクションといいます。ひじょうに不愉快で存在してはいけないもの、それを人に投影することで、ひとつの安定が得られるというわけです。

 中世の魔女狩りというのは、ひじょうに強固な聖人としてのペルソナを形成したキリスト教の指導者たちが、自分の邪悪な面 を抑圧して、抑圧した結果、大きなシャドウを作ってしまった。そのシャドウをどこかに投影しなければならない。その投影する相手として魔女というものをどんどん作りだしていったというわけです。そういうメカニズムが働いていたことを、深層心理学者たちは指摘しています。

 いま「邪悪な」という言葉を使いましたが、邪悪というのはなぜ邪悪になるかといえば、自分の嫌悪感が入るからです。本来はものすごく健全な部分的人格でも、それを嫌悪感を持って抑圧することによって、それは邪悪なものになってしまいます。

 中世の魔女狩りというのはひじょうに極端な話ですけれど、気分的には我々の日常生活でもしょっちゅう行われています。だいたい人と人が争うときには、シャドウのプロジェクションということが基本的なところにあると考えても間違いではないでしょう。

 ここで何がポイントになるかというと、本来は自分のペルソナとシャドウの闘いが、自分対他人の闘いにすり替わっているということです。自分と他人との闘いになってしまえば、そこでは問題がすり替わってしまっていますから、いくら闘ってもそこに解決はあるはずがありません。魔女を何千万人殺してもけっしてシャドウがなくなるわけではありませんから、それは永遠に続いてしまいます。同じことがふつうの闘いにおいても起きています。

 それから、もうひうとつは、たとえばAさんとBさんが闘っているとすると、Aさんは自分の好ましいペルソナが自分だと思っていて、自分が好まない邪悪な面 をシャドウとして相手に投影しています。Bさんもまったく同じなのです。そうするとどちらから見ても、これは正義対悪の闘いになってしまう傾向にあって、闘いはつねに正義対悪の闘いとして行われ、自分の方が正義ということになってしまうのです。そこではつねに自分の方にペルソナを置いておいて、自分のシャドウを相手に置いているから、お互いに正義対悪の闘いというメカニズムが働きます。

 いまの世の中というのは近代文明社会ですが、じつはそういうメカニズムがひじょうに強い社会であり、自我の発達からいえば、後期自我といわれている人たち、まだペルソナとシャドウの闘いを抱えている人たちが、社会のリーダー層を占めています。そうすると、そういう人たちはつねにシャドウをプロジェクションする相手を見つけて、正義の闘いを仕掛けるのですね。

 そうすると、またその正義の闘いに大勢の賛同者が出てきます。なぜかというと、シャドウをプロジェクションする相手がみつかると、人は安定するからです。自分の中に抱えてプロジェクションできていない状態というのは、ひじょうに不安定ですから、その正義の闘いの邪悪な敵を見つけてプロジェクションすれば、人間というのはひじょうに安定するわけです。

 したがって正義の闘いを誰かが始めれば、ワーッと大勢の人がそれに群がる傾向があります。これがひとつの団結ということになります。ですからアメリカがテロを受けたあと、ものすごい団結心が見られたのは、テロリストに対してプロジェクションしたということのひとつの証です。

 テロリストの方も、これはあきらかにアメリカに対してシャドウのプロジェクションを行っています。ジハードというのは、コーランにも書いてありますが、日本語訳を見るかぎり、これは自分の心の中の闘いのことを言っているように私には読めるわけで、外の敵を叩きつぶすようなことは書いていないと思います。

 それをやはり中世のキリスト教の指導者たちと同じように、イスラム教の指導者たちがかなり曲げて自分のシャドウをプロジェクションするというかたちでもって、ジハードを呼びかけてしまっています。

 というわけで、お互いにシャドウのプロジェクションを行ってしまっているということは、一連の行動の根本的なところに読みとれるわけで、これはトランスパーソナル心理学などべつに持ち出さなくても、古典的な深層心理学でそこまでは読み解けます。そこから話が始まって、解決の方策を探していかなければならないだろうと思うのです。

 そういうことで、これは報復攻撃をしても解決しないと思いますし、話し合いをしても解決しないでしょう。要するに、紛争の基本的なところにそういうことがあるということをもしお互いに自覚できたら、ひとりでに消滅していくような話だと思います。

 魔女狩りの話とか、テロの話など、ひじょうに極端な話をしましたが、じつは我々ふつうの極端な争いのない日常生活でも、私たちはまったく同じことを日に日に、1時間1時間、1秒1秒、やっているわけで、そういうメカニズムがちゃんと理解できたら、世の中の紛争は激減すると思われます。

 それが理解できるということは、先ほど申し上げた後期自我という、シャドウとプロジェクションが分離している状態から、シャドウをペルソナに統合するというプロセスを経て、成熟した自我というところに行かなければなりません。

 それはまだ自我のレベルのことで、その先には超個のレベルがいくつか定義されており、人間の心の成長には限りはありません。しかしながら、その自我のレベルの中ですら、成熟した自我に達している人はひじょうに少ないというのが、いまの近代文明社会の現実です。

 こういうところに基本の基本があるということを今日はお伝えしたかったのです。