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2002年03月『ペルーに関連したお話』

 ペルーに関連した、さまざまなことを今日はお話ししたいと思います。

 1995年、その年は神戸の大震災があった年で、また、オウム真理教徒の起こしたサリン事件が世の中を騒がした年でもあります。その事件が起きたとき、私はちょうどアメリカで、情報スーパーハイウエイに関する講演を英語でしており、そのあと郵政省主催の情報スーパーハイウエイの視察団とともに、アメリカ中を回っていたのですが、その事件を現地で知って、大変驚いたことを覚えています。

 帰国後すぐに、関野綾子さんというチャネラーが主催する「芸術家のためのセミナー」に参加しました。一回目は、海外出張と重なって参加できず、その2回目に参加したのです。午前中のセミナーが終わって、みんなで昼食を食べに外に出ました。画家やシナリオライター、女優さんなどアーチストが多かったのですが、私は全員初対面 でした。

 そのなかに、ごく普通のおばさんがいまして、そのおばさんが、食事が終わった頃に、突然トランス状態になって、いろいろ話し出しました。「いまここにいる人たちはみんな昔、ペルーにいたのよ」と言いだし、誰々さんはそのとき何をしていたと、詳細に話し始めたのです。ひとりの女性は、天外さんに恋をしていた、なんていうことまで言い始めます。そのとき、私はペルーで有名な笛の名手で、神に仕える身だったというのです。

 私はその後、チャネリングというものも経験していますが、そのときは生まれて初めてそんなことを言われ、とても気持ちが悪かったことを覚えています。この人はどうなってしまったのかと。そして、前世があることもまだ信じていなかったので、なんと変なことを言う人だろうと、ただ、その話を聞いていました。

 食事が終わってセミナールームに帰ると、枝本一代さんというミュージシャンが、ケーナを手に持っていて、「これがペルーの笛だよ」と言って渡してくれました。それが、私が初めてケーナを手にしたときでした。吹いてみても音はさっぱり出ませんでしたが、そんなことがありました。

 おばさんの言葉は気味悪かったのですが、私自身、高校から大学にかけて、クラリネットやサックスを吹いていて、まんざら楽器に無関係ではなかったのです。卒業して何年もブランクがあったのですが、ちょうどその頃、また昔の仲間が集まり、またジャズを始めた頃でした。そういうわけで、笛の名手と言われても違和感はなく、なんとなく思い当たる節もあったのです。でも、その方とは初対面 で、私のことは何もご存知ないはずですから、不思議と言えば不思議でした。

 その次のセミナーは北海道でありました。そのときに竹内寿康さんという画家が、そこに参加していました。彼が、家の裏に生えていた竹で作った篠笛を持ってきていて、それを私にくれました。それでセミナー中ずっと、それをピーピーと、なぜかとても気に入って吹いていました。うまくは吹けないのですが、不思議なことに、雀が目の前に来てその笛の音をずっと聴いているのです。じっと聴いていて、吹き終わると飛んでいってしまった。これは不思議なこともあるものだなと、思っていると涙が出てきて、不思議な感触にとらわれました。これが二つ目のエピソードです。

 そのあと、瞑想中にビジョンが出てきて、私が大きな石の舞台で笛を演奏しているのです。それは大きな60センチほどもある横笛でした。私が横笛を演奏して、後ろにパーカッションがいたような気がします。その場所は石で囲まれたところで、石が二重に積まれていました。2、3百人の人がいるのですが、全員、白い服を着ていました。なんか宗教的な行事らしいのです。そこで私は、ひじょうにいいメロディーを奏でていましたから、これは覚えておこうと思ったのですが、瞑想から出てきたら、残念なことに忘れていました。その前におばさんのチャネリングの話がありましたから、これはひょっとするとペルーかなと、思ったりしたものです。

 じつは、翌96年の初夏に、芸術家のセミナーに出ていた仲間でペルーに行きました。最初にリマに着き、それからクスコに行き、クスコの古い教会を見ているときでした。それはインカの神殿の跡に、後にスペイン人が教会を建設したもので、下半分が昔の神殿でしたが、私は、みんなから少し離れて、ボーッとしていました。

 クスコは標高が高く、ちょっと頭がフラフラしていたのですが、なんか声が聞こえて来ました。私はふだん、瞑想中は別 にして、そんなことはまったくないのですが、「ようやく来たね。ずっと待っていたよ」と声が言うのです。これは何だろうと思い、あたりをキョロキョロしたことを覚えていま す。

 それからマチュピチュに行きました。マチュピチュの小高い丘の上には、一般 には「生け贄の岩」と呼ばれている岩がありました。そこで生け贄を切り裂いていたと言われるのですが、その岩に私はやけに惹かれて、その岩の上に座って瞑想することにしたのです。4日間そこに滞在したのですが、毎日午前中3、4時間はそこで瞑想していました。それは今から考えると不思議な話で、そこはロープが張られた立ち入り禁止の場所なんです。したがって、その岩の上に座っていたら、注意されるはずですが、毎日、そこに何時間も座っていられたこと自体、不思議なことなんですね。

 岩の上に座って目をつぶると、どっと涙があふれてきて、その間、涙が流れっぱなし。そしていろんなビジョンが出てくるのです。その岩の上で、おそらく神官がエネルギーアップをしていたのではないか、と思われるような光景が見えました。私はその岩の上に座っているのですが、ビジョンではその岩の上に寝ていて、頭の上に向こう山の頂からエネルギーが入ってきて、両手両足からまたエネルギーが出ていくのです。両手の先には山のピークがあり、足から出ていったエネルギーは川に行く、というようなエネルギーの流れが見えて、そのエネルギーの流れを、神官とか巫女さんが援助しているような感じなのです。

 そこにペルー人のガイドがやって来ると、説明の声もひそめてくれるのですが、日本人がくるとたちが悪いのです。なかでも大阪弁のガイドさんは、「あ、瞑想してはるわ。涙を流してはるんとちゃうか」と、大きな声で言うので、瞑想からすっかりさめてしまうのです。瞑想から出てくると、岩は寒いし、堅いし、再び入るのに時間を要するので、苦労しました。毎日、長時間瞑想していると、体がだるくなり、動けないような状態になり、毎朝、生け贄の岩がある山に登るときも、這うようにして登りました。

 そうやってマチュピチュの4日間が終わって、クスコに戻り、ようやく歩けるようになったので、朝、散歩をしていました。クスコというのは、インカ時代の町ですから、道がひじょうに狭いのです。狭い道を歩いていると、向こうからトラックが猛スピードでやってきて、すごい勢いでクラクションを鳴らしたんです。これは車が優先のペルーではあたりまえの話ですが、私は日本のつもりで、コンチクショウとそのトラックをにらみました。その瞬間、タイヤが大きな音を立ててバーストしてしまったのです。ちょっと先にすれ違うような場所があったので、そこで見ていると、タイヤが半分くらいに空気が抜けているのです。それはちょっと自分でも驚くほどバランスが狂った状態で、怒りのエネルギーがそういう状態で出てしまったのです。

 そして今年になって、マハーサマーディ研究会でペルーに行くことになりました。最初の日に、みなさんを前の生け贄の岩にご案内しました。そこで以前の出来事を話しますと、矢山利彦さんとか、気のエネルギーがわかる人が何人もいましたから、早速その岩の上に登って、調べることになりました。「これはすごい。こっちからこっちへエネルギーがながれている」などと言い合っていると、あっという間に、ガードマンたちがやって来て注意されました。私は以前、毎日そこに座っていたのに、何故注意されなかったのか、不思議でした。

 それは2月2日、私の還暦の誕生日でしたので、夜は、還暦のお祝いをみなさんにやっていただきました。我々は51名で、他のお客さんも若干いたのですが、そのアメリカ人たちも含めて、みなさんにお祝いしていただきました。還暦というひとつの区切りの時間を、大勢の仲間とともに、こういう場所で祝ってもらえる喜びを私はかみしめました。赤いチャンチャンコを着て、赤い紙の烏帽子をかぶって。

 翌3日は再びマチュピチュへ。マチュピチュの遺跡というのは、多少気のエネルギーがわかるものたちにとっては、ものすごく興味深い場所です。たまたま日時計と言われている、これも立入禁止の岩に登って、エネルギーを観測しているときのことです。これはあとから聞いたのですが、一緒に行っていたペルー人のガイドが、そこは立入禁止だから入っては行けない、と注意しようと思って私を見上げたら、この人は昔ここにいた人だとわかったので、注意しなかったというのです。ひょっとすると、以前に来たときも、ペルー人のガイドさんたちは、同じように思ってくれたのではないかと、そのとき思いました。

 今度のツアーには、伊藤忠商事のリマ事務所長、柴田さんと、リマには天野博物館という大変有名な博物館があり、天野さんはプレインカの遺跡を発掘した方ですが、そのお孫さんの阪根さんが同行してくれました。そういうわけで、阪根さんは考古学の専門家なんですが、マチュピチュの遺跡を回っていると、知っているはずのない私が、専門家の阪根さんに、いろいろ解説しているというシーンが何度もありまして、これも不思議な体験でした。

 その日の午後に、遺跡を案内してもらっているとき、石の祭壇の前で、ペルー人のガイドに、そこでセレモニーをしてくださいと言われました。たまたま天野博物館から全員に珍しい赤と黒の木の実が配られていたのですが、それはシャーマンたちがお守りに持つものでしたから、それを祭壇に備えて全員で声を出す太陽瞑想をして、般 若心経を唱え、感謝しながらその木の実をいただくという儀式をしました。その儀式の式次第もなぜかわかってしまうのです。

 そのとき、この場所で、神官たちが日の出の祈りをしているのが見えてきて、涙がうっすら出てきました。そのときは我慢したのですが、その儀式がすべて終了したときに、すごい懐かしさがこみあげてきて、私は我慢できなくなり、号泣してしまいました。

 そうしたら、ペルー人のガイドが、「いま、天外さんはものすごくエネルギーが高まっているから、みなさんハグしてもらったらどうですか」というので、私はひとりひとりとハグをしました。そのとき、ほとんどの人が泣いてしまって、そのうちに二人のガイドさんも泣いてしまって、端からみたら、なんと変な宗教団体かと思われたことでしょう。でもとても心に残るイベントでした。

 その日の夜は、少人数でパイプセレモニーをしたのですが、その最中から豪雨になりました。ちょうど雨期だったのですが、毎日日が射し、お天気に恵まれていたのですが、その日の夜から、ものすごい勢いで雨が降り出し、マチュピチュだけではなく、ペルー中が何十年ぶりという豪雨になったのです。あちこちで大洪水になるほどでした。飛行機も止まり、電車も不通 になったのですが、そんななかで、奇跡的に交渉が成立して、我々は電車でクスコに戻ることができました。そして翌日も無事、飛行機で戻ることができました。

 ひとつだけイベントができませんでした。それは、柴田さんはリマの孤児院にドラムをたくさん寄贈しており、ドラムといってもペルー特有の腰掛けて叩くドラムですが、それをプロの人が教えています。その孤児院を訪問して、子どもたちと一緒に私は演奏することになったのですが、飛行機が遅れて、それは残念ながらキャンセルになりました。それ以外の日程は、すべて滞りなく果 たすことができました。

 そのときの何十年ぶりという大雨と洪水も、なんとなくみんな我々が泣いたことと無関係ではないように思えて、川柳をつくった人がいました。「天外泣き、インカの神ももらい泣き」と。そんな不思議な、楽しい旅でした。