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2002年02月『大きな森のおばあちゃん』

 以前にもここで話しましたが、昨年童話を書きまして、それが先日、発売されました。予定より発行が遅れたのは、『ガイアシンフォニー』という映画を撮っている龍村仁さんに推薦文をお願いしていたのですが、彼はものすごく多忙な方なので、それで少々遅れました。この童話ができたきっかけというのは、龍村監督が映画の上映にともなって私の会社に話をしに来てくれたのですが、そのときの実話がもとになっています。

 象が干ばつのときに、何千頭も集まって、森を目指して長い旅をします。ところが森の大きさと象の頭数がミスマッチで、その森についた象たちが樹や草をムシャムシャ食べ始めると、たちまち森は丸裸になってしまいます。そうすると象は飢え死にしますし、その森に棲んでいるいろいろな動物も一緒に死に絶えてしまいますから、間引こうじゃないかという議論が湧き起こりました。

 森林監視人や環境保護のメンバーたちが、現場を調査しながら毎日激論をかわしました。間引くというのは、年寄りから殺していくわけですが、目の前で両親を殺された子象たちはきわめて強いトラウマができ、まともに生きていくことができなくなるということで、結局、間引くことはとりやめました。

 そうして何千頭もの象が森にたどり着いたわけです。最初、ムシャムシャ草を食べ続けるのを見て、みんな森はなくなってしまうのでないかと心配しましたが、リーダーの雌象から一頭、さらに一頭とその森を離れ、干からびた川辺で次々と死んでいきました。年老いた象から順にその河におもむき、何百頭もの象が自ら死んでいったのです。そのおかげで森は滅びず守られて、そのうちに雨が降って来て象たちは無事に干ばつを生き延びました。

 その後日談があるのです。何年かたって大雨が降り、死んだ象のお腹にあった種がすごい勢いで繁殖しだし、その森がさらに大きく育ったというのです。その話を私は童話に仕立てました。

 これも不思議な話ですが、私は大企業の技術畑でずっと働いてきまして、一方で、精神世界に関するノンフィクションはこれまで何冊か書いてきましたが、フィクションは今回初めて書いたのです。いきなり童話を書くというのは、不思議といえば不思議な体験でした。しかも、じつは何年か前から60歳を過ぎたら童話を書くというイメージがずっとあったのです。何故そうしたイメージが出てくるのか、自分の心の中の希望が出てくるのか、予感なのか、自分でも判定できない状態で、そんなことを何年か考え続けていたのです。

 そして、あるパーティで知り合った人にそんな話をしましたら、その後、彼女から童話を書いてくださいというお手紙をいただきました。その手紙に彼女が絵を描いた象の絵本が同封されていました。それが今回絵を描いてくださった芝崎ルリ子さんだったのです。

 その象の絵を見たとき、龍村監督の話を思い出して、その瞬間にストーリーが湧いてきて、それ を書かずにはいられなくなったのです。土、日曜をはさんで、2、3日でいっきに書き上げました。 そして書いている間涙が止まらず、不思議な経験をしした。それをまた龍村監督にも気に入っていただいて、推薦文を書いていただき、出版に至ったわけです。

 そうしたところ、これが朝日新聞社の記者さんの耳に入って、1月3日の新聞でそのことが紹介されました。じつは、私はソニーの役員をしているわけですが、これまで天外伺朗というペンネームで本を書く仕事は絶対に交わらないように、別 々の人格で使い分けてきたわけですが、2002年は、それを統合する時期に来たと感じています。

 というのは、もうひとつ大きな共時性があったのです。私は2000年に瞑想の本を書きまして、それが昨年出版されました。その瞑想の本を書くときに、私が中学3年か高校1年の時に、父親の書棚から見つけた『第3の目』という本があり、それはチベットの僧侶の話で、ふつうに考えると荒唐無稽な本ですが、その本のことを思い出しました。

 その中にはいろいろな瞑想のことも書いてありましたから、瞑想の本を書くときにその本を、一生懸命探しました。半世紀前に出版されたものなので、見つかるかしらと思っていましたが、インターネットのおかげで首尾良く手に入りました。それで2000年の12月頃にそれを読みました。これまで私がいろいろ書いてきた精神世界の基礎は、その本でできたとも言えるものでしたし、この本はやはり自分の人生の一冊であり、ここから始まったなとそのとき思ったのです。

 そういう思いを強くしながら、瞑想の本を書き上げました。昨年10月に発行されたその本は、おかげさまで大好評で、最近、増刷も決まりました。

朝日新聞
2002年1月3日(木)
朝刊より

読売新聞
2001年12月23日(日)
朝刊より

 こうした状況の中で、読売新聞社から「人に本あり」というコーナーの取材が来ました。人生の一冊を話してくださいというのです。これは共時性以外の何ものでもありませんでした。あの本はやはり私の人生の出発点だったという思いを抱いていて、瞑想の本を書き終え、やれやれと思っていたところに、取材の申し込みが来たのです。その取材の申し込みがあったとき、私は本名とペンネームを統合する時が来たと瞬間的に思いまして、そういう話を記者さんにしました。

 こうした二つの共時性に導かれて、これまで本名でやってきた社会生活と、天外伺朗という名前で書いてきた仕事を、今年は統合していくときが来たのだと思っています。それがどんなふうに展開していくかはわかりませんが、二つの共時性が意味するところ、そうせざるを得ないなというのが私の解釈です。

 したがって2002年というのは、私にとってたいへん興味深い年になると思います。中森寿庵さんという算命学の大家に、2002年から2年は天誅殺だから気をつけてくださいといわれているのですが、そんなときにこんなことをしていいのかなというのはありますが、そこにひとつの宇宙の流れのようなものを感じます。

 2002年の2月2日、私は還暦を迎えます。仲間がツアーを企画してくれまして、ペルーのマチュピチュという古代遺跡の町の山の上のホテルで還暦を迎えることになっています。そこでお祝いしていただけるというので、そんな幸せなことはないと思っています。

 来月はそのお話をしましょう。