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天外伺朗の謎に挑む!(1/2ページ)

サイエンティスト、瞑想家、ケーナ演奏者、某大企業重役と、 多彩な顔をもつ天外さん。日頃「ニュースレターでは僕を目立た せないで」とおっしゃっていますが、「天外さんってどういう方?」 という多くの質問に答える ため、この特集を企画しました。

●天外さんはいつ頃から「あの世」に関心をもつようになったんですか。

振り返ると、父の影響が強かったと思う。父はきわめて真面 目な銀行員だったけれど、不思議な能力があったし、宇宙の成り立ちについてもかなり理解していた。

●不思議な能力というと?

父は友人や親しい人が亡くなるとき、察知できたんだ。夜中に「いま○○さんが死んだ」と言いだして、翌朝電報が届くことが何度もあったよ。すばらしく光り輝いた姿で夢枕に立ち、お礼をいうので、亡くなったとわかるんだって。その人が健康で死の予兆が全くないときにもね。

それから、父はサイコキネシスの実験もしていた。瓶の上に消しゴムを置いて虫ピンを立て、その上に乗せた紙を念力で動かすんだ。僕も小学校低学年の頃はすごい速さで回せたし、いったん止めて逆向きで回すこともできた。でも、あるとき「人前ではしてはいけないよ」と父にいわれてから、その能力はなくなった。

最近、同じ装置をつくって実験したけれど、ちっとも動かないね。まあ、子どもの頃に比べて、いまは不純だからかもしれないけど(笑)。とにかく、見えない世界があることは体験として知っていたし、あるのが当たり前と思っていた。 そうそう、父の書架にはそういう関係の蔵書もけっこうあったな。僕は中三のときチベット僧ロブサン・ランパが著した『第三の眼』に出会い、それを参考に自分でも瞑想を始めたんだ。

●天外さんはどんな子どもだったんでしょう。

小学校低学年の頃は、熱を出してしょっちゅう学校を休んでいた。いまでも体は強い方じゃないし、だからこそ瞑想を必要としたのかもしれないね。でも小三のとき茅ヶ崎に引っ越して野原を駆けまわるうち丈夫になって、それからは病気はしなくなった。

当時の茅ヶ崎はほとんど松林で家はまばら、子どもにとって天国だった。木に登ったり、泳いだり、蛇を捕まえて煮て食べたり、毎日暗くなるまで遊んでちっとも勉強しなかったよ。マラソン、棒高跳び、洋弓もしたし、いまから思うと野生児だよね。 いまでも思い出すのは、友だち十人くらいで森の中にハンモックを作ったこと。近所中を回って藁の縄をもらい、それを何十本と綯って太いロープを作り、数十人乗れる大きなハンモックを作ったんだ。どんな高い木もてっぺんまで登れたから、上の方にも小さなハンモックを作ったよ。

当時は子どものグループがたくさんあって、戦争ごっこもした。すっかりインディアンになりきって(笑)木の枝で強力なパチンコを作って石やかんしゃく玉 を打ったり、いま思うとすごく危ないことをしていたね。幸い事故はなかったけれど、かんしゃく玉 が顔に当たって数日ひどい顔になることはあった。

それから、小三から中二まで、ドイツ人の親友のつきあいでカトリック教会に通 い、ほとんど毎日曜、教会でミサを受けていたことを覚えている。洗礼を受ける気は全くなかったけれど、「神さまは本当にいるのかな。もしいるなら徴がほしい」なんて、毎日一生懸命考えていたなあ。

●そんな子ども時代はいまの天外さんにどんな影響を及ぼしているんでしょうか。

九十五年、あるセミナーで瞑想中、大きなハンモックのビジョンが鮮やかに浮かび、涙が止まらなくなったことがあった。しばらくして、「ああ、あれがハイヤーセルフなんだ」と気づいたね。

茅ヶ崎での五年間は、本当に毎日生き生きしていた。あの時代に、僕の一生分の何かが培われたんだ。それで、僕は当時の思い出をもとに『子どもの頃には』という歌を作詞作曲した(風雲舎刊『意識学の夜明け』所収)。最近、プロのジャズミュージシャンが歌いたいといってきたよ。

●天外さんは音楽がお好きで、ご自分でも演奏や作曲をなさいますね。

高校から叔父のサキソフォンを借りてジャズバンドを始めた。お金がないから校長室の灰皿をシンバルにしたり、ジャズマンと親しくなってバーに出入りしたり(笑)、見つかったら退学だったね。バンドの名前は「RagPickers」(ボロ拾い)で、仲間とは墓場で練習していた。ホームレスの恰好をして演奏したんだ(笑)。

高三のとき、伊勢湾台風で校舎の屋根が飛んで数カ月休校になり、バンド仲間で「伊勢湾台風チャリティコンサート」をしたこともあった。仲間の半数は受験勉強を理由に参加しなかったんだけど、おもしろいことにコンサートをしたメンバーは全員現役で大学に合格したのに、出なかったメンバーはみんな浪人した。そのとき「人生は遊んでいる方がいい」というレッスンを学び、この年までそれを実践してるってわけ(笑)。

ジャズは大学でも続けて、「Hotjive6」というバンドの初代バンマスになった。資金は全部自分たちで用意したよ。大学一年のとき、友だちが当時人気だった「トリスおじさん」をベニアで作ったら、サントリーがお酒とバーの道具一式をもってきてくれた。それで僕たちは学校祭でバーを開き、ドラムセットとベースを買ったんだよね。そのときベースを担当した友人とは、いまでも毎年二回くらいライブハウスで一緒に演奏している。

●商才がおありだったんですねえ。

高校のときは、授業をちっとも聞かずにノートに先生の似顔絵ばかり描き、学園祭で売って儲けたこともあったし(笑)、大学時代は仕送りはほとんどなかったけれど、自分たちが演奏するパーティ券を売ったり、トラック運転のアルバイトをしたりして稼ぎ、自家用車まで買ってかなりいい生活をしたと思う。

●グライダーにも熱中したと伺っていますが。

高一の夏休みに、中日新聞主催の学生航空連盟に応募して霧ヵ峰に出かけ、グライダーを始めたんだ。長期休みには合宿に出かけて飛行場で飛び、土曜にはグライダーがある別 の高校まで自転車で一時間かけて通い、河原で飛んでいた。

大学に入ってからは、読売新聞後援の学生航空連盟でグライダーをした。僕は運動神経はそんなによくないんだけど、グライダーの才能はあったと思う。上昇気流をつかむ感覚がいいんだよね。当時、「獲得高度一〇〇〇メートル」というのは教官でもできる人は少なかったんだけど、僕は十回以上飛んだ。

●空を飛んでいて危険な目には遭われなかったんですか。

僕自身は事故には遭わなかったけれど、大学二年のとき三機で飛んでいて、僕以外の二機がぶつかった事故があった。一機は羽根が一メートルもげたまま着陸できたけれど、もう一機は羽根の根元にぶつかったため空中分解して、パイロットは即死した。

僕はぶつかった瞬間は見なかったけれど、一機が飛行場の方に下りていくのは克明に見えたし、もう一機が破片を撒き散らしながら落ちていくのもちらりと見えた。でも、友だちが死んだかなんて考えてもみなかった。不思議なくらい心が落ち着いているのだけど、一種のパニックだったんだね。

落ちていったグライダーの破片が僕を追い越してひらひら舞い上がっていき、大事故が起きたというのに、「ああ、きれいだな」と思ったことを覚えている。ふつう上昇気流の旋回はすごく神経を使うんだけど、そのときはトランス状態になっていて、手足が自動的に動いてしまうんだ。下りなくてはいけないとわかっていたのに、教官から「下りてこい」という指示を受けるまで、僕はずっと上昇し続けた。横滑りで高度を落としたときはじめて、事故の実感がわいて震えたよ。

●それでもグライダーをやめなかったんですね。

事故の後はしばらく全員が飛行停止になったけれど、また飛べるのを待ちかねていたね。そして大学四年のとき、「直線距離五〇キロ」に挑戦したんだ。いまのグライダーは八〇〇キロくらい飛ぶけれど、当時はとても難しくて、僕が日本国内で四人目くらいだったんだよ。東京湾を横断して房総半島真ん中まで、五十八キロ飛んだんだ。

ところが、教官が恐くなってしまったんだね。後から「そんな飛行は許可しなかった」といいだし、僕は査問委員会にかけられて飛行停止という懲罰処分を受けた。それがきっかけでグライダーをやめたんだ。

●ひどい話ですね……。

この事件は、僕にとってすごいトラウマになった。でも、それが後にCDを開発する原動力になったと思うね。仕事をするときは、トラウマは力になる。だから、トラウマが必ずしも悪いわけじゃないんだ。

飛行停止になってからは、大学にこもって音声認識をテーマにした卒論に取り組んだ。一生懸命だったからすばらしい出来になり、ベルギーの大学から奨学生として留学しないかと誘いを受けたくらい。

とはいっても、僕はそれまでほとんど勉強していなかったから、卒業のときの成績は後ろから数えた方が早かった(笑)。だから、就職担当の教授には驚かれたけれど、当時まだ小さかったS社で営業職に就こうとしたんだよ。でも、入社のとき卒論のコピーも提出したら、それが評価されたのか研究部に入れられたんだ。人生ってわからないもんだよね(笑)。

続く次号では、天外さんと精神世界の出会いについてご紹介しましょう。鋭い突っ込みにも飄々と答えてくれた天外さん、どうもありがとうございました!
2000年12月10日 サンダンス会場で。(聞き手:事務局スタッフ)

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